Sunday, March 24, 2013

21 per annum C

年間21主日 C

【ルカ13:22-30神の国の宴会の席】

年間 第十二火曜日
「狭い門から入りなさい」
マタイ7・6、12-14

神を本気で信じていくとき、道は広くない。わいわい騒いでいる人たちといっしょに行きたいと思っていたのでは、命に通じる道に行くことはできない。神はないかもわからない、なくて
もよいではないか、と周りの人々から言われる。私はそれでも神を信じて生きるのであると、神にいっさいをささげ、生涯をかけていくことが大事である。その道を見いだす人は少ない。そこに信仰者の闘いがある。同じ信仰者からも批判、誤解、嫉妬、排斥などを受けるかも知れない、信じない人から迫害、敵意などを受けることがある。
そういうせっぱ詰まった中で生きていかなければならない。しかし、どんなに厳しい道であろうと。「主はわたしの牧者、私は欠けることがない」(詩篇23・1)と歌うことができるのである。
平坦な道を行っているとき、羊飼いは何もしないが、険しい道になれば彼は一匹ずつ抱いて広いところへ連れていく。草原がなくなれば必死になって緑の牧場をさがし、水ぎわに羊たちを連れていく。そのとき、羊飼いがどのように私のことを思っていてくれるかがわかる。広いところにいたらそのことはわからない。狭い門から入ってはじめてわかるのである。(榎本)
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一般社会では、「狭い門」ということば、新聞などでは受験の競争率が激しいことに対して用いられている。大学受験の狭い門、就職の狭い門などと使います。つまりエリートになるためには、狭い戸口を突破しなければならない、という使い方です。そうだとするならば、天国へ入るためには霊的エリートにならなければなりません。たくさんの人が入れない狭い戸口に、競争に勝って入ることによって自分だけは救われる、という霊的エゴイストになってしまいます。

しかし、イエスが用いた本来の意味では、「それを見出す者は少ない」(14)ということばからわかるように、だれもが殺到するのとは逆に人目に付かないような小さな門のことだと言われている。
当時のユダヤ人は、イエスが語った、悔い改めと信仰によって救われるという福音などは、あまり人々の注目を引くことがなかった。それに対してほとんどの人はこの世的な力、勢力に期待を寄せていた。その道は大勢の人々が行きますので「広い道」、「大きい門」でした。それは「滅びに至る」道であった。しかし、この世の中では滅びの道を教える者の方が人々の人気を集め、それに従う人の方がはるかに多いのです。(山口)
人々はキラキラと輝くものに引かれ、そのトリコになりやすい。ところが本当に価値あるものが、小さなもの、地道のもの、謙虚なものにあるかもしれない。「人々がほしがるものは、少ない人々(エリート)によってしか所有されえないようなもの、それは分配されれば、価値が減ってしまいます。さらに持っている部分を楽しむことによって満足させるよりも、持っていない部分が欠けていることによって、いっそう悲しみをおぼえるのです。でも、本当に価値あるのものは、減ったりしないで、羨望も伴わない、すべての人が同時に所有することができて、だれも自分の意に反して失うことのできないようなものでなければならない」(パスカル、425)。
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天国にはいり、また神さまにお会いしたいのだけれども、それは難しくて、人よりも厳しい修行をしなければ入ることができない、多くの善行を積まなければならない、そうでなければ入れない、だから狭い門である、ということなのでしょうか?
イエスさまは、すべての人が救われるために十字架におかかりになったのです。一部のエリートだけが救われるのではないはずです。どんな罪人でも、救われる。天の神にお会いすることが出きる。それがイエスさまの十字架です。ですから、イエスさまの門は、本当は「広い門」のはずです。
ところがここでは、「狭い門から入りなさい」と言われている。これはなぜか?
それは、門を狭くしてしまっているのは、イエスさまではなく、私たちなのです。イエスさまは、大きく門を開けて、手を広げて入るのを待っておられる。ところが、その前を素通りしてしまうのです。  例えば、園田(尼崎)教会の門の前で毎日たくさんの人々が通っています。
ある神学者が、「教会は天国の出張所だ」と言われた。しかしこの小さな教会が天国の出張所のようには見えないのです。そんな感じがしないのです。それでみんな違う方へ行くのです。そのように、それらしきところ、多くの人が行くところ、そういうところに行けば無難だろうと思っているでしょう。まさに、イエスさまは大きく手を開き、門を開けているのに、まさかそんなところに天国の出張所があるとは思わないで通り過ぎていくのです。
そのように、実は誰でも通ることのできる広い門であるのに、「狭い門」にしてしまっているのは、私たち人間のほうであると言うことができます。(nibanmati) 日常の雑多な出来事の中から狭い門を見いだすことのできる恵みを願います。
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神様はこのように不寛容で、厳しい方なのだといっているのでは決してありません。だってイエス様はすべての人を救いたくて、十字架にかかったのです。すべての人です。
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そのうえ、イエス様に「私はお前を知らない」と言われる危険性もあるのです。「いっしょに食事をしました」とか「教えてくださいました」などということは通用しないというのです。つまりどんなコネでも役に立たないのです。先祖代々信者だとか、父母は信心深いとか、若い時はよく教会へ通ったとか、そういう過去のことは一切関係ないのです。今の私自身の身についたものだけしか役に立たないのです。現在の私と神との関係が問われるのです。過去が罪人であったとしても、今回心していればよいのです。昔義人であったとしても、今そうでなければどうにもならないのです。今を大切にしないと、後で歯ぎしりして悔やんでも後の祭りなのです。

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