Sunday, March 24, 2013

22 per annum C

年間22主日 C

【ルカ14:1,7-14 高ぶる者は低くされ】


あいさつ 

 「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)というのはもちろん、神からの報いがあるということです。ここには、人からの報いを期待しないという面があります。
お盆の行事にお中元(道教の行事)があり、年の暮れにお歳暮という習慣があります。そのほかにも、わたしたちは普段の生活の中で、プレゼントやそのお返しにずいぶん気を使いながら生きているのではないでしょうか。人からの報いや人へのお返しが当たり前の社会に生きているわたしたちにとって、イエスの言葉は非常に強烈な問いかけです。「これだけのことをしてあげたら、これだけのことはしてもらえるだろう」「これだけのことをしてもらったから、これくらいはしてあげなければならない」というだけの世界では、自分の本当の生き方を見いだすことはできないのです。自分の生き方を人からの報いではなく、神との関わりの中で選び取るということは大切なことです。

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8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。…むしろ末席に行って座りなさい。」
このイエス様の勧めは、ずいぶん具体的で計算高い教えです。上座につくと、もっと偉い人が来ていたら恥をかく。末席につけば、もっと上座を勧められ面目をほどこすというのです。イエス様にしては本当に俗っぽい、打算的な勧めです。このことはイエス様が、けっして世事(せじ)や世間的考えにうとくなかったことを示しています。むしろ世間の人以上に、世間の人間の計算高さをご存じだったのです。
むしろ世間の人間は世間の中に生まれ、その中にどっぷりつかっているために、かえって世間が見えないのです。しかしイエス様は神の目で、世間を世間の外から見ることのできる唯一の方です。人はなるべく恥を受けないように、また少しでも偉く見られるように細かく配慮し、巧妙に計算して行動します。そういう人のずるさを、イエス様はよくご存じでありながら、それを醜いとはとりません。

 人々の中でそれだけ計算するように、宗教(信仰)において、つまり神との関係においても、十分賢明でありなさいと説いているのです。イエス様の教えは、単なる道徳訓話ではなく、常に信仰的な意味があると考えるべきです。
 この世の価値観では、宴会の上席に座る人は必ず偉い人なのです。ですから日本においても、皆が少しでも上席に座ろうとねらい競争するのです。有名な大学の席を、会社の部長・課長の椅子を求めて争い、それを得た人が立派な人と認められます。でも最高の席はたった一つしかありません。ですから自分こそそこに座ろうとするのです。
 そしてそれが最高の名誉であり、最高の出世なのです。そのためには人間性を切り捨ててさえ、それを得ようとするのです。権力のためには、スキャンダル、権謀術数(けんぼうじゅっすう)、裏取り引き、暴力、脅迫、裏切りなど、ありとあらゆることが使われるのです。そしてこの世の価値観では、少々あくどいことをしても、上座についてしまえば、すべてがゆるされてしまうのです。
 しかし人の前で栄誉あることが、必ずしも神の前でも栄誉だとは限らないのです。いやむしろ、価値が逆転すると言っていいと思います。人間の間であがめられていることは、神の前ではむしろ嫌われるのです(ルカ16、15)。「権力ある者を、その座からおろし、低い人々を高め、飢えた者をよいものでみたし、富むものを空手でかえされる」というのは、神の絶対に変わらないなさり方のようです。神の前で価値あることは、身分ではなく人間性そのものなのです。ですから人間の世で賢くあるように、神の前で賢くなければ真に賢いとは言えません。
 切磋琢磨(せっさたくま)し合って、上座に近づくことは優れた文化につながります。それは、自分の力で神に近づこうとするようなものです。トップ(神)に近い席に近づけるのは立派な人だけだと思われています。そして文化は人が立派になることを求めます。しかし、信仰の世界では逆です。神のみが立派なのです。神の立派さをあまりにも強く知るので、とても自分が立派だとは思えないことなのです。神の美しさをはっきり見るので、まさか自分が美しいとは信じられないのです。自分を立派だと思う人は、そうではない人と自分を比較して、相手を裁きがちです。自分の立派さを信じられない人は、人を裁きません。自分をこそ裁くからです。自分が立派だと思う人は、他人に対しては冷たく厳しい人です。自分の立派さを信じられない人は、自分に厳しく、人には優しくて明るい人です。
 人間の宴会で末席(まっせき)につく人は、上席に呼ばれるかもしれない、という下心があります。しかし神の宴会に招かれる人は、下心があって末席につくのではないのです。自分こそ末席にふさわしい人間だ、と本気で思い込んでいる人なのです。喜んで末席につく人こそ、心の低い、少しも高ぶらない人なのです。それは見せかけの謙遜でも、装ったへりくだりでもないのです。ですから人間の中の末席こそ、神に一番近い席と言えるのです。なぜなら最上席が本当の意味で一番ふさわしいイエス様が、人間の中で末席についてくださったからです。普通、上席は奉仕を要求する席で、末席は奉仕をする席です。しかし、イエス様は、「仕えられるためではなく、仕えるためにきた」と。奉仕をすることを通して、人類の末席を祝福してくださったのです。(静)

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11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
集まりで上席を求めて落ち着かない人々を見て、イエスは大胆に、神のなさり方を説明されます。神はへりくだる者を高めるという、聖書の基本的な真理を宣言されます。「権力ある者を、その座からおろし、低い人々を高め、飢えた者をよいものでみたし、富むものを空手でかえされる」というのは、神の絶対に変わらないなさり方のようです。おそらく、人と人との関係でも、そうではないかと思います。お互いの中に謙遜さがなければ、真実の交わりは生まれてこないのではないでしょうか。真実の友情(友達)があるとすれば、そこにはお互いを尊敬し、評価するへりくだりの心が必ずあると思われます。もし、自分を高く評価し、自慢しようとするならば、友情はたちどころに冷えてしまうのではないでしょうか。
 上席を求め、社会的な地位を誇示(こじ)しようとする人々の間には、真の友情はありえないはずです。野心があり、「虎視眈眈」(こしたんたん)〔易経。虎が鋭い目で見渡すこと。たんたとは恐ろしい目をした虎が下を見下ろしているさま。餌食を狙うトラ〕として隙間をねらうような気持ちで集まっているような所では、互いに心の中で警戒を深めていくだけです。たとえ、表面的に評価し合ったと
しても、うちは用心深く、互いに閉ざされています。安らぎはなく、孤独感が残るだけです。真の友情は、真の交わりは、自分のありのままを開きあうことを土台とし、その土台の上に発展していきます。
 神との交わりでも同じことです。真実を土台とします。自分の真実な姿を知る心には、へりくだりが生まれます。
私たちの真実、それは、まず与えられた存在であるということです。この存在、この命は、自分の力で作り育ててきたものではない、ということです。人々の愛、そして神の愛がなければ、けっして存在しなかったのです。この私たちの生命を愛し、そのために食べ物を与え、養ってくれる親や、周りの人々がいなかったならば、今の自分はいなかったはずです。しかも、私たちはそうした愛を受けるだけの価値と資格があるとはいえないのです。むしろ、反対です。人々に迷惑をかけ、負担を与え、人々を苦しめるだけの欠点だらけの人間です。ときには、人々の心を傷つけ、悲しませろことをしかねない存在です。
私たちが愛され、つつまれ、受け入れられたということは、報いを求めない無償の行為によるのです。それは、神が、一方的に無償で、私たちに愛を注がれたからです。
謙遜な心は、自分の存在の根拠が他者、つまり神と人の無償の愛であると認めることから生まれます。このような謙虚な心のあるところに、本当に気持ちのよい、落ち着いた、ゆらぐことのない交わりが生まれてきます。この謙遜を土台にして、神や人に対する真の友情、真の愛が育っていくのです。(森)




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