【IIマカ7:1f、9-14 七人兄弟の殉教】
年間32主日 C
【わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である】
年間第9水
マルコ12:18-27
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、「ヤーウェ」という御名が啓示される前から用いられた神の名であって、イスラエルの民にとって最も古くて親しみ深い御名である。この御名の中にすでに、神が死者を復活させる方であることが示されているというのである。死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされているが、イエスのような聖書理解によれば、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていたことになる。それはイスラエルの盲目の故に隠されていただけで、いま神の命に直結して生きておられるイエスによって覆いが除かれ、聖書の全体が死者を復活させる神の啓示となる。
神が燃える柴の中からモーセに語りかけた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいた。もし神が彼ら父祖たちを復活させないで死の中に放置する神であれば、その神は「死んだ者たちの神」となる。神が命の根源であり、生命そのものである以上、神は死んだ者たちの頭ではありえない。神は生きている者たちの生命の源泉、生きている者たちの頭である。その神が「アブラハムの神」と名のられる以上、アブラハムはその神に属する者として生きていなければならない。
神様は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神だった」とおっしゃったのではなく、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」とおっしゃったのです。
すでに死んだアブラハムが生きているというのは、彼の霊魂が存続しているという意味ではない。イスラエルにはギリシャ人のような霊魂不滅の考え方はない。生きるというのは、あくまで体をそなえた命の活動である。したがって、アブラハムが生きているということは、アブラハムの復活を前提とした表現である。神はモーセに「アブラハムの神」と名のられることによって、ご自身が死者を復活させる者であることを啓示しておられるのである。さらに、もし父祖たちが死の中に放置されるのであれば、彼らに与えると約束された神の約束は実現できない空約束になってしまう。約束に対する神の信実という観点からも、「アブラハムの神」という御名はアブラハムの復活を前提として含んでいることになる。
このように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉は、伝承されたイエスの言葉(ロギオン)の中でも最も重要な言葉の一つである。このような根源的な神理解がイエスの聖書全体の理解を貫き、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名を復活の啓示と理解させるのである。このような理解は聖書の言葉の小手先の解釈技術から生まれるのではない。イエスが神の霊、神の力に満たされて生きておられた現実から流れ出るのである。たしかに当時の黙示文学には、復活にあずかる者たちは天使のようになり、結婚も飲食も必要でなくなるというような記述も見られる。しかし、ここに示されているような、最も古い神の名を、ひいては聖書全体を復活の啓示とするような理解はユダヤ教に類例がない。これはイエスだけが達しえた境地であろう。
この段落は、死者の復活を宣べ伝える初代教団が、それを否定する者たちとの論争を、イエスとサドカイ派との論争という形で提示したものであるという解釈がよく見られる。しかし、ここには初代教団の復活理解や表現の痕跡がないことから、イエスご自身のものとする方が適切である(エレミアス)。一歩譲って、ここに初代教団とユダヤ教側との聖書解釈についての論争の形式が認められるとしても、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」というロギオンと、そこから出る聖書理解はイエスのような方だけにふさわしいものと考えられる。われわれもイエスのこの言葉に基づいて、「死者を復活させる神」を信じ、聖書全体をこの神の啓示として理解するのである。
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あるアンケートによると、「来世も今の相手と結婚したい」と答えている男性が52%だそうです。しかし女性のほうは、「来世は今の相手とは結婚したくない」と答えている人が67.6%と、7割近くに上っています。こういう場合は、復活の時にはどうなるのか。
また、亡くなった方の棺桶(ひつぎ)の中に、家族が故人の愛用していたメガネや補聴器のイヤホンを入れたりします。故人があの世でも困らないように、という思いがあって入れるのでしょう。それはとても優しい心で、大切にしたいと思います。しかしこれもよく考えてみれば、復活の時には、やはり目は近視や老眼で、耳は遠いのか。天国でもそうなのか。
私たちには分からないわけです。神と直接に顔と顔を合わせてお会いすると書いているだけで、それ以上のことは何も分からないのです。「天使のようになるのだ」と言われても、そもそもその天使というものがどういうものなのかよく分からないし、聖書にもそのようなことは書かれていません。正直言って分からないのです。
主キリストが、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」とおっしゃるのです。それは私たちの想像を超えてすばらしいことになるに違いないのです。十字架にかかられて死んだイエスさまが、復活をなさるという、人間の想像を超えたすばらしい出来事が起こったように、です。 ですからわたしたちは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」というみことばを、希望のみことばとして受け止めることができます。私たちの神様の力は、私たちが想像する以上にすばらしいことをなさってくださるのであると。 「神よ、あなたは先に私たちを愛して下さいました。この愛に支えられる私たちが、いつも心から兄弟に仕えることができますように」(本日の集会祈願、年間週日16参照)。
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人間的な思いに囚われる私たちに、主はこう呼びかけているのではないでしょうか。下と後は見るな。前にいる私だけ見てついて来なさい。どこまで来たのか思わずに、私だけを見ていれば良い。ゆっくり ゆっくりバランスをとって一歩一歩歩けば良い。私だけ見てついて来なさい。過去に、未来に心を奪われることなく、今この瞬間私たちのために祈りながら待っている主に向かって一歩一歩進むことができますように。
年間第33土
ルカ20・27-40
大事なのは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」と言う言葉です。「人はみな神に生きるものだから」という言葉です。これはつまりすべては「神を中心にして生きなさい、神を中心にして考えなさい」ということです。すべてを神を中心にして考えるならば、神は死んだものを死にぱなっしになどは決してなさらないだろう、神を中心にして考えるならば、死人の復活は当然信じられることだし、神に生きるということを考えれば天国での生活の仕方も、この世の生活の仕方とは当然ちがったものになるだろう、だから、この世的な考えで、めとったり、とついだりする世界をかの世の世界に持ち込めないということになると思います。
復活とか、死んでからのいく世界、天国のことを考える時に、私たちはこの世的な思いを捨てて、神を中心にして考えていかないといけないということです。
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カゲロウとバッタの話があります。一日を楽しく遊んだ後、バッタがカゲロウに言いました。明日また会おうね。カゲロウはわかりませんでした。明日ってなに?今度は、バッタがカエルとある夏を一緒にすごし、カエルがバッタに言いました。来年までお元気でね…バッタは理解できませんでした。
来年、来年、らいねーんが有るのか?サドカイ派の人々も私たちも、復活を経験した人はいません。唯一経験したイエスだけが、私たちを復活へと導くことができるのです。
復活へのゆるぎない希望のうちに、今日、イエスに従うことができますように。sese06
年間32主日 C
【IIマカ7:1f、9-14 七人兄弟の殉教】
第1朗読ではただ豚肉を食べてはいけないと言うユダヤの教えを守るために、次々殺されていく7人の兄弟たち、そしてそれを見届ける母の姿が描かれます。
信仰の力強さを感じ、これに共感する人もいるでしょう。しかしこんなふうにはとてもなれない。いくら信仰とは言え、ちょっと違うんじゃないかなと嫌悪感を持つ人もいるのではないでしょうか。
私は成人洗礼で、ずっと宗教と言うものには距離を置いてきた人間でした。ですからどちらかと言えば、こういう話には警戒します。恐らく一般的な日本人は、そう感じるのではないのかと思います。明治時代、天皇を神と信じさせられて、人間天皇のために命を捨てていった若者たちの記憶。そして別の宗教への聖戦を呼びかけ、そのために死ねば、すぐ天国に入れると訴える宗教指導者。自分の信じる正義のために妻子がいながらも、自分の命を捨てて自爆テロを実行する原理主義者。
こうしたことが、宗教への警戒を日本人に植え付けます。キリスト教もイスラム教も天国を信じます。この世の生がすべてでないことを教えます。このことはよく働くときには、献身的な愛を生み出します。しかし悪く働くときには、神の名のもとで、人間のこの世の命をあまりに粗末にする結果となります。これは狂気です。宗教が、正常な感覚、この世で幸福に生きたい、人間の命は大切だという当たり前の感覚を、麻痺させてしまっているように思えるのです。
キェルケゴールと言う哲学者がいました。彼は生涯をかけて「そのために生き、そのために死んでもいい」。そのような真理を見つけようとしました。
日本人は、そのために死んでもいいような真理に警戒をします。天皇と言う神様、イスラム原理主義、多くの殉教者を出したキリスト教。そして宗教全般。しかしそうしたものを警戒した結果、「そのために生きる」。そのような真理も失ってしまいました。そしてその代わりになるものを探してきたのが戦後の日本社会だったように思えます。金や物の豊かさ、学歴、会社での出世、性的な快楽。しかしそれらはすべて、そのために生きるようなものではなく、またそのために死んでもいいようなものでもなかったのです。逆に虚しさばかりです。金儲けのため、出世のため一所懸命努力した。でもそれは何のためだったのか。その先がないのです。場合によってはそのために家族の団欒が壊されていきました。孤独になっていきました。敵ばかり増えました。真理ではなかったのです。
人間は過ちを犯します。宗教的指導者も過ちからまぬがれることはできません。
東西ドイツが一つになる前、東独の国境警備隊は、法律と命令で、西独への逃走者は銃殺せよと言われました。しかし東西ドイツが統一されたあと、その命令に従って、銃殺をした人が、裁判にかけられることになりました。彼は法律に従った忠実な警官であり軍人でした。しかしどうして、ただ西ドイツに行きたいだけの普通の市民を殺したのか。それは人間としてはいけないことだった。せめて狙いを外すくらいの憐れみをすべきだったと、統一ドイツによって裁かれたのです。
人間には「そのために生き、そのために死んでもいい」、つまり生きる目的であり、死ぬ目的。そのようなものが絶対、必要なのです。法律とか政治家、宗教家の言うこと。それ以上の確かなものが、です。
キリスト教は「何のために生きる」と教えていたのでしょうか。それは人間を創った『神を知り、神と人を愛し、神と隣人に仕え、永遠の幸福(生命)を得るため』 でした。
その神様を心の奥底から認め礼拝しましょう。キリスト教の神は、抽象的な、目に見えないものでありません。イエス様の中に具体的に姿を表しています。「私を見たものは神を見た」。
貧しくひっそりと生まれ、自分の利益を求めようとせず、人間の救いのために身代わりになって死んだイエス様。それだけでなく、復活し、永遠の命を得、また復活しても自分を憎んだ敵を呪ったりせず、限りなく愛し、赦そうとした。神様とはこのような姿だと私たちにははっきり示されています。報復とか、正義のために人を殺していいとか、そのような発想はここにはまったくありません。
イエス様に現れている人間を生かす神。それこそ私たちが、そのために生き、そのために死んでもいい、本当の真理であり、道であり、命です。それを本当に認め、イエス様の内に現れされている神様を、その教えを、明日を担う子どもたちに、自信を持って、最大の宝として伝えましょう。それが私たちの義務です。
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年間第33主日C年 ホミリア(ルカ21・5–19)
長田弘(おそだ・ひろし)という詩人がこんな詩を書いております。
「はじまりというのは、何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際はちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何かをやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです」
つまり、何かを始めるということは、常に何かをやめることとつながっている。そして、その詩人は続けてこう言います。
「子どものときから、はじめたことよりも、やめたことのほうが、人生というものの節目、区切り目として、濃い影のように、心の中にのこっています」と。
私たちの人生も、似たようなものかもしれませんね。
失敗や断念、やめざるをえなかったこと、苦しい経験――それらの中に、新しい何かが始まる瞬間があります。
そして、今日の福音に出てくるイエスの言葉も、まさにそういう目で私たちに語りかけています。
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当時の人々は、神殿の外装の美しさに心を奪われ、神殿の主である神を忘れがちでした。
美しい神殿がいつまでも続くと思っていたのです。でも、イエスさまは「神殿はつぶれる」と言われます。
その言葉は、目に見えるものにばかり心を奪われる私たちへの警告でもあります。
栄光の中でも、破壊の中でも、見つめるべきは「神のはからい」――変わらぬ神の愛なのです。
私たちも、人生の中で、思い通りにならないことや、やめざるを得ないこと、苦しみを経験することがあります。
戦争や災害、事故や病気、そして失敗や別れ……。
そんな時、つい「なぜ私だけが」と思い、心が沈みます。
でも、イエスさまは、その「やめざるをえなかったこと」や「失敗の影」の中にこそ、命が生まれ、信仰が深まる瞬間があると示してくださいます。
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弟子たちも、神殿の崩壊や世の終わりを聞いて、こう尋ねました。
「先生、いつそんなことが起こるのでしょうか。前兆はありますか?」
つまり、彼らは"どうやって避けられるか""どう備えればよいか"を知りたかったのです。
私たちも、災害や困難から逃れたい、と思うのは自然なことです。
しかし、イエスさまの答えは違います。
終末の日時や前兆を知ることではなく、
「絶えず目を覚まして、日々を神のもとで生きる」ことにこそ意味がある、と教えておられるのです。
それは、恐れから逃れることではなく、神の愛に信頼して、毎日を全うすること――まさに"やめざるをえない中から始まる生き方"です。
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詩人が言うように、「やめること、断念すること」が、新しいはじまりの影を作ります。
人生の苦しみや失敗、避けられない困難の中で、私たちは新しい信仰の一歩を踏み出すのです。
神殿が崩れるような激動の中でも、神の愛は変わりません。
そして、私たちの小さな日常の中で、信頼し続ける生き方こそ、神に生かされる歩みです。
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ですから、今日からも、日々の生活の中で小さな節目や「やめざるをえなかったこと」を思い返してください。
それは決して失敗ではありません。
その一つひとつが、私たちの信仰の土台となり、神の恵みの中で命が育まれていくのです。
終末や困難を恐れるのではなく、
その前触れの中でも、神に信頼して生きること――それがキリスト者の歩みです。
神は、栄光のときも、困難のときも、変わらぬ愛で私たちを抱きしめてくださいます。
私たちは、日々の中で神の愛に心を向け、信頼して歩み続けることができます。
そしてその歩みこそ、
「やめざるをえなかったこと」から始まる、新しい命のはじまりなのです。
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33rd Sunday in Ordinary Time, Year C – Homily (Luke 21:5–19)
There is a poet named Hiroshi Osada, who lived from 1939 to 2015 and is considered one of Japan's representative postwar poets. He wrote about the essence of life and the small discoveries in everyday life. He has a poem that begins with these words:
"A beginning is to start something. That might seem like the proper order. But I think differently. A beginning, I believe, is always about stopping something. It is always in stopping something that a new beginning can be born."
In other words, starting something is always connected to letting something go. The poet continues, saying,
"From my childhood, I remember more clearly the things I stopped than the things I began. Those moments, like deep shadows, remain in my heart as the real milestones of my life."
And sometimes, it is not even that we choose to stop, but that we are forced to stop—circumstances compel us to give up. And yet, even in that giving up, something new begins.
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Our lives are similar. There are moments when we cannot go on as we wish—when we must let go, when we fail, when we face suffering. In those very moments, new life and new insight can begin. And today's Gospel speaks to us precisely in this way.
The people of Jesus' time were captivated by the outward beauty of the temple, and they often forgot the Lord, who is the true master of the temple. They believed that as long as the temple was magnificent, it would last forever. Yet Jesus says, "The temple will be destroyed." His words were not meant to frighten but to teach that the things we see and rely on are fragile. What truly matters is God's providence—God's unchanging love.
Even in times of glory or in the midst of destruction, God's love does not change. Paul tells us, "Be steady in your work." We are called neither to get carried away by fleeting joy nor to sink into despair, but to live each day with trust in God's mercy, doing what we can, and loving sincerely. That is what it means to live as a follower of Christ.
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In our own world, suffering is everywhere. There is war, terrorism, disease, famine, natural disasters. There are events that shake us to the core. When tragedies happen, it is natural to ask, "Where is God in all this?"
But Jesus shows us how to live even in such circumstances. True happiness is not avoiding suffering, but trusting in God and living faithfully through it. That is where human dignity and eternal joy are found.
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The disciples asked Jesus, "Teacher, when will these things happen? Are there any signs?" They wanted to know how to protect themselves, how to prepare, how to escape. We ask the same questions. It is natural to want to avoid danger, to know the signs before disaster strikes.
Yet Jesus' answer is different. He does not give us dates or signs. Instead, he calls us to watch, to live in faith each day, to trust God's love amid uncertainty. The focus is not on escaping fear, but on living faithfully and courageously, even when circumstances force us to let go or endure.
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As the poet said, "It is in stopping, in giving up, that a new beginning emerges." Likewise, our difficulties, our failures, and the things we cannot control can become the soil for new life, the moments where faith grows. Even when the temple falls, even when our lives feel shattered, God's mercy is unshakable. And in our everyday lives, living with trust and devotion nurtures life in God's grace.
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So, I invite you to reflect on the times in your own life when you had to stop, when you had to give up, when circumstances forced you to let go. Those are not failures. They are the starting points for new life.
We may fear the end, fear suffering or change, but even in the prelude to those trials, God's grace is at work. Faithful endurance opens the way to life. God's love is constant, whether in times of glory or in times of collapse.
As we go forward, may we keep our hearts open to God's love, living each day in trust, prayer, and care. And may we recognize that it is precisely in those moments when we must let go that a new beginning is born.
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